貧乏が奪った愛と私の決意
地獄の幼少期: 私が親になって気づいたこと
幼少期の記憶は、年を重ねるごとに薄れていくものだと言われることが多いですが、私の場合は違いました。むしろ、年を取るにつれて幼い頃の記憶がより鮮明に思い出されるのです。そして、これまでその記憶が自分の人生に与えた影響と向き合い続けてきました。
特別、虐待を受けたわけではありません。親に捨てられた経験もありません。実際、今でも両親が私を愛してくれていることは実感しています。しかし、そんな私でも、「自分は親として同じ道を歩まない」と決意せずにはいられない過去があります。今回は、そんな私の“地獄の幼少期”についてお話ししたいと思います。これを読んで、同じ思いを子供にさせないためのヒントを見つけていただければ幸いです。
始まりは、期待されて生まれたことから
私は東京の片隅で家族の大きな期待を背負って生まれました。私の母は、私の兄になるはずだった「たかし」を流産で失っています。その痛みを乗り越えた末に授かった私は、それはもう大切に育てられました。
音楽を聞くのが好きで、よく笑う明るい子供でした。両親のことも大好きで、姉とも仲良く過ごしていました。けれど、家族の歯車が狂い始めたのは、私が3歳のとき。父が家業を継ぐことを決意し、茨城の田舎に引っ越したときのことでした。

家にいじめっ子がいる生活
引っ越し先で、私の日常は一変しました。姉たちから毎日のようにいじめを受けました。背中を切られるような暴力を受けたこともあります。家に帰っても安心できない生活が続く中、両親は家業や生活の厳しさから喧嘩が絶えず、怒鳴り声が日常のBGMのように響いていました。
4歳の頃、私は初めて「死にたい」と思いました。小さな私の心に芽生えたのは、こんな感情です。
「自分には生きる価値がない。私は生まれてこなければよかった。私はいらない子なんだ。」
当時の私にとって、そんな考えはごく自然なものでした。さらに追い討ちをかけたのが、「貧乏」という現実でした。

貧乏が奪ったもの
父は家業を継いだものの、経済的には苦しい日々が続きました。家族全員が、お金のなさを痛感しながら生きていました。お米を買うお金もなく、コンビニのおにぎり1つを兄妹3人で分ける日々。食卓には薄味の具なしのすいとん。水道が止まったときは、コンビニで体を洗いました。
保育園では可愛い服を着て、立派なお弁当箱を持ってくる友達を見るたびに、疎外感を感じました。「なんで自分だけがこんな目にあうのだろう」と思わずにはいられませんでした。
愛されているのに感じた「拒絶」
生活が少しずつ安定し、父の事業が黒字化してきた頃。両親と姉たちはジェットやスキーなど、楽しそうな家族の時間を過ごすようになりました。しかし、そこに私はいませんでした。
母は私に「あなたにはできないから」と言って、いつも私だけを留守番させました。挑戦したいことを口に出しても、否定されることが当たり前になりました。そんな日々の中で、「私は何もできない人間なんだ」と感じるようになりました。
私が親にぶつけた言葉
その後、私はついに不満を抑えきれなくなりました。高校に入る頃には学校にも行かなくなり、バイトを掛け持ちして家に帰らない生活を送りました。親に対しても、あらゆる思いをぶつけました。
「生まれてこなければよかった。」
「なんで産んだの?」
「パパなんかずっと大嫌いだった。」
親になった今だからこそ、これがどれだけ辛い言葉だったのか理解できます。当時の私には、ただどうにか両親から離れたいという気持ちしかありませんでした。自分が大嫌いで、そんな自分を産んだ親も嫌いにならずにはいられなかったのです。
教訓: 貧乏は人を弱くする
私の幼少期を振り返ると、一つだけ確信していることがあります。それは、貧乏が人間を弱くするということです。お金がないと、人は余裕を失います。温厚だった父が手をあげるようになり、母が子供に八つ当たりをするようになったのも、その余裕のなさが原因でした。
愛があれば幸せになれるという言葉を耳にします。しかし、それは貧乏を経験していない人間が言える理想論です。お金がないという現実は、人間から思いやりや愛情を奪い、精神的にも追い詰めていきます。
そんな親にはならないために
今の私は、あの頃の両親の気持ちを理解しています。でも、だからこそ決めていることがあります。私は、自分の子供に「貧乏」という苦しみを経験させない。そして、子供が挑戦したいと思ったことを否定せず、愛情を持って応援する親でありたいと。
だからこそ、私は今日も働いています。家庭を支えるために、子供たちに必要なものを与えられるように。それが、私の幼少期が教えてくれた一つの教訓なのです。
作成者 諸岡 葵
